もちろん、今になって時間割を変更するわけじゃない。
来年度から取るべき授業や、自習すべき内容などを確認する。
とりあえず予定としては……

来年度(大学二年目)の終わりに学部の授業を(重要なのは)全て終わらして、
再来年度(大学三年目)からうちの大学の院の授業を履修。 
そして三年で卒業、って感じらしい。
………無理かも。

別に無理して三年で卒業したりしなくてもいいんだけど、その方が安く済むし。
教授数人に頼み込んで、夏の間に個人指導も行ってもらうつもり。
僕が日本にいても問題がないように、メールで週1情報交換ってな形に。
明日、うちのMath Department の Vice Chair とその事についてディスカッションを予定してます。
懇意にしてるというか、仲が良いというか……一応気に入られてるっぽいので、頼みやすくて助かる。
うちの大学のPutnam Competition Team (全米大学対抗数学オリンピック)の監督でもあるので、その為の対策ゼミも週に一度開いてもらってるし。

理想としては、夏の間に線形代数のもっと高度なやつ(商空間とか、ジョルダン標準形とか。うちの大学じゃあ一年生向けの線形代数で教えないので)。。それか今やってるレベルよりもうちょっと深く入った代数学を勉強したいかな。
それもまぁ、指導教官しだいだけれど。
とりあえず佐武先生の線形代数(もちろん、英語版)を大学の図書館で発掘してきたので、これを参考テキストとして頼み込んでみよう。

さてと、予想通り数日前に書いた事に対しての反論がきたので、メールで頂いた反論を引用しつつ、僕なりの見解を書いてみる。
反論されやすいように、曖昧かつ適当な書き方をしたので、ツッコミが中々厳しい厳しい。。

*反論1  人を殺すのはいけない、 は自明な論理ではない。

>「人を殺してはいけない」という論理にも人権思想が土台としてある。
> 万人が平等と見なされるからこそ成立する「論理」なわけだから。
> 当然の公理なんかじゃない

確かに、それは今生きている人間の、もっとも平均的な意見にすぎない。
けれど……まぁこれは僕が「人を殺すのはーー」 ってのを例として使ったのがいけなかったんだけど
じゃあ 「万人を平等と見なす」 って公理は存在しないのか?
まぁ確かに…これも人権思想が土台としてあるわけだけど。
ただ僕の問題としてるのは、もっと根底にある 「そうやって論理をさかのぼって行った場合、本当に公理は存在しないのか?」

勘違いされると困るけど、公理が正しい物である必要は全くないと思う。
公理系の中に形成された論理が、その公理系の中で正しければ良いんだから。
例えば、「貴方がチョークを落とした時に、それが3つ以上に割れたのなら人を殺してもいい」  っていう公理から論理を展開する事も可能なわけだ。
で、例えばこの場合 「割れるの定義」とか、「二人が一つのチョークを手に持って、同時に落とした場合は?」 とか。 色々な状況が現れると思う。
法学とか社会科学ってのは、そういう公理系上に成り立つ物を、論理的に考えて行く学問じゃないのかな。

* 反論2 公理など存在しない

>公理が「存在」するとは、私は思わない。
>互いに歩み寄った交渉と対話を可能にするために、またより良い社会を作るために、人間がそれらしいものを作ってるだけの話だ。

後半は同意するが、前半は間違っていると思う。
人間がそれらしいものを作ってるのは、人間がまだそれを見つけてないからじゃないかな。
僕がちょっと古い、ヒルベルト的な思想を持っているからかもしれないけれど…存在を疑うのは間違いだと思うよ?
存在すると仮定して、それを追求して行くべきだと思う。
それとも、存在しないという証明があるのかな。

* 反論3 社会科学のありかた

>社会科学は「探求する学問」ではない。そういう一面も確かにあるが、それは付随属性の一つでしかない
>この学問には「作り上げる学問」という性格の方が強いんだ

作り上げる物なら、なおさら普遍的な仮定、すなわち公理が必要だと思う。

* 反論4 普遍性

>普遍的なものというのは人間の社会では成立しえない。
>そもそもの前提がどんどん変わっていくのだから。

しかし所詮は「人間の社会」という限られた空間でしかないのだから、
大きなスケールで見れば、普遍的な物が全く存在しないとは思えない。
少なくとも抽象的には、人の「社会」をある種の「体」としてとらえる事が可能だと思う。
んなの複雑すぎて現実的じゃない?  学問ってのは理想を追い求める物だと、少なくとも僕は思ってる。

*反論5 具体例、など

>分かりやすくするためにはクローン技術の問題に伴う法改正や家族制度の問題なんかを出すと一発なんだけど

勉強不足のため、家族制度の問題ってのが何を指すか今イチわからないけど…
クローン技術の問題に伴う法改正は、如何に人間の社会が well define されてなかったかの良い例じゃないかな? (well defineの使い方を間違えてる気がするが、気にしない)
論理体型が十分に整備されてなかったから、こういう問題が起こったとも言えるし
今の僕らの社会の前提となっている事が、不適切な前提だったか
そのどちらかだと思う。
実際、適切なように思えて実は不適切だった前提や仮説は、幾度となく歴史に登場している。

ちょっとマニアックな話になるけれど、「全体は部分より大きい」という公理は、果たして自明なのか?
それと似たような議論になると思う。
(結論は、自明ではない)

興味があれば、
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/post2/modernmath.html
を読んでもらいたい。
modernmathとか書いてあるけど、現代哲学史のページ。
厳密な基礎論理の重要性を、ちょっとは理解してもらえると思う。

……自分で読み直してみて、数カ所引っかかるところがあるなぁ(笑)
読まれた方からの手厳しいお言葉、お待ちしています。
(プロフィールの横にあるリンクを飛べば、メアドとか掲示板があるので…)

さぁさっさとラグランジェの定理に関する宿題を終わらせて、Handbook of Analysis and its Foundation の第三章を読み終わらせないと。
今夜も長くなりそうだ…。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索